ちどりのあしあと - 2011年05月

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2011年05月

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母の疎開体験

実家へ行くと、母のPCのメンテナンスをすることが多い。先日もマイドキュメントフォルダに溜まったファイルの整理をしていた。その中に「集団疎開」と名前のついたテキストファイルがあった。母に尋ねると書いたことを忘れていたという。中身を見ると2003年に書いたものらしい。母は集団疎開経験者だ。

福島原発事故が一向に収束せず、被害が拡大するに従って、原発に近いところで暮らす子ども達を疎開させるべきだという意見が聞かれるようになってきた。母はこの「原発疎開」の話が出始めた頃から、疎開は子供の心に大きな傷を残すものだということを繰り返し話した。

文中にもあるが、疎開という言葉は聞いたことがあるものの、経験者はそれほど多くないことに驚かされる。ましてや60年以上も前のこととなるとまさに博物館級の話である。原発事故を契機に現代の疎開を考えている人々ならずとも、傾聴に値する史料だと思い、母の了解を得て加筆修正の上公開することにした。


集団疎開のこと / 石川もと

【はじめに】

2003年8月14日、九段下の「昭和館」というところから、集団疎開についての展示があるとの案内が来たので、出かけることにした。

私の卒業したT小学校の絵日記その他が展示の多くを占めており、他に都内の2,3校の記録もあった。驚いたことに、その展示のコンセプトには「反戦」の色が薄く、タイトルも「家族と離れて」では、何を伝えようとしているのか不明確であった。

昭和館での展示に接し、単に当時の人々の苦労を後世に伝えるだけではいけない、という思いが募って一文を起こすことにした。現在75才-78才の生き残りの中でも、都会在住だった人だけという、気づいてみれば貴重な体験。そしてそれを、次世代の子どもには絶対に経験させないという「反戦」の思いをこめてここに綴る。

【集団疎開が強行された背景】

昭和19年(1944年)春頃より、日本の敗色は濃くなり、東京も空襲が避けられない事態となっていた。通学の途中で警戒警報のサイレンが鳴り響き、アメリカの飛行機が遙か上空を飛んで偵察するさまを、何度も見たことを記憶している。

都内の小学校では子ども達を避難させるべく、家族で、親戚に預けられる子は「縁故疎開」を、預ける宛のない子は学校単位で「集団疎開」を計画せざるをえなかった。学校で、「そかい」の話が良く出るようになり、「えんこ?」「しゅうだん?」とお互い聞きあったりしている頃は、自分たちにどんな明日が待っているかも想像できず、「おすわり?」などとふざけて言ったものだった。

小学3年-6年(国民学校)の子を対象とすると決まり、親戚では奈津子、和歌子、そして私の3人だけ。しかも行く先はばらばらだった。

【T小の疎開】

T小には「郊外園」と呼ばれる農場があった。西武線久米川駅から20分位のところで、畑の他に作業用の小屋や管理人の住まい等があり、集団疎開希望者全員を何とか収容できるとの判断で、ここで生活させられることになった。総勢は40-50名だったと思う。最上級の6年生の一部は、近くの民家に泊まらせてもらっていたようだ。

【8月に疎開】

未だ残暑の季節だったと思うが出発の日の記憶はない。布団や荷物は別送したのだと思う。それまでも郊外園行きは1学期に1、2回あって、それは遠足のように楽しい行事だったから、その日もそんな気分だったのだろう。高田馬場から西武線に乗って行った。 家族が見送りに来ていたはずだが、それも覚えていない。卒業後何十年もたって、小学校のクラス会が開かれた折、当時の担任が(疎開の直前に病気で退職していた)、その日疎開していった生徒のことを思って泣いたと話したのが、妙に白々しく感じられた。

【その生活】

3-5年生は、農園の小屋のたたきの床に机を並べてその上に畳を敷いただけの大部屋に入った。教室も食堂もなく、小屋と畑の間の広場に机と椅子を並べて座った。雨の日のことは覚えていないが、畳の上に座ったのだろう。

食事は教員が作って学年毎に分け、それを当番が配ったと思う。勉強も少しはしたのだろうが、畑の芋つるをとったり、草むしりなどの作業をしたことが記憶に残っている。風呂は1週間か10日に一回くらいだったろうか。管理人棟の五右衛門風呂に交替で入った記憶があるが、全部井戸水だったから、大人の苦労が偲ばれる。風呂には入らなくても、洗髪は時々外でやった。シャンプーを個人個人で持っていっておりそれを使った。今の様な液体はなく紙に包んだ粉石鹸状のもので、そのにおいは今でも記憶に残っている。

9月はまだ残暑があり、空腹よりものどの乾きに襲われたが、そんな時の井戸水のおいしさは格別だった。しかし、朝夕涼風が立つようになると、猛然と食欲がわいてきた。ごはんの量も日に日に少なくなり、おかずはみそ汁だけ。時々魚があったが、当番の配膳を食い入るように見つめていた自分と周りの子ども達の姿を思い出すと今でも胸が痛む。

昭和館の展示で、よその学校の子が、ノートいっぱいに料理やおやつの名前を羅列しているのを見たときも、思わず涙した。家にいれば、親は自分の食べるぶんを減らしても子どもに食べさせる。少ない食事でも、家族で分け合うのと大勢の他人と分けるのでは気持ちが違う。おやつもなく、絵日記の絵は、たまに出たふかし芋の絵ばかりだった。10月になって雑木林に栗拾いなどにも行ったが、持ち帰って分けるなどという悠長なことはできず、みんな生で食べた。どんぐりは頭が悪くなるから生で食べない方がいいと誰かがが言ったので我慢した。

さらに日にちが経って子ども達の飢餓がすすむと、個人で持っていた薬を食べる者が出てきた。糖衣錠になっている薬を沢山食べて顔が腫れ上がってしまった上級生を見て、恐ろしいと思ったものだった。

栄養状態が悪いので、虫にさされても跡が化膿したり、体中おできのようになっている子も多かった。

私はといえば、秋が深まって冷え込むようになると背中や胸がときどき痛み、多分教員に訴えたのだと思うが、「肋間神経痛」なる言葉を簡単に示された。風邪もひいたと思うが寝ていた記憶はない。のどが痛くなったら要注意と自分に言い聞かせていた。 同級の恵子ちゃんは、そのころでは珍しいまばたきをよくするチックがあった。その子の場合は、教員が病院に連れて行って診察を受けさせたようだった。

【教員のこと】

昭和館の展示で知ったのだが、教員達は3日位のローテーションを組み、疎開先と自宅とを行き来していたらしい。都心からでも1時間ちょっとだから可能だったのだろうが、子ども達は、「先生方も家族と離れて我慢している」と思いこんでいた。学年ごとに男女ひとりずつが担任となり、子ども達に「お父様・お母様」と呼ばせていた。3年生の担任は、体育の岩丸先生と、今で言えば養護教諭の近藤先生だった。

頼る大人は教員しかいない。しかしここでは、心から頼らなくてはいけない大人に、本当の気持ちを出すことはできなかった。全てが軍隊式で、親から来る手紙も全員の前で内容を披露され教員がコメントした。

昭和館に展示されていた他の学校の生徒の文に、「早く帰りたい、迎えにはいつこられますか」とあったのを見て、これは学校には気づかれないように出したのだろうかと疑問を持った。すなわち、従姉の奈津子ちゃんが集団疎開を切り上げて帰宅するという母からの文面に、「あなたもそうしたいですか」と教員は聞き、「いいえ、ここにいたいです」と嘘をつく自分が居た。

父からは今で言う絵手紙がよくきた。それを教員が「上手だ」と褒めたのは嬉しかったが、「これは先生に下さい」と取り上げてしまったことを、「いやです」ともいえずに済ませた自分が情けなかった。「へちまがぶらりとなりさがりました」という文面と、ヘちまの絵が描かれていたはがきを今でも忘れない。

「小国民」と子どものことを言い、「ほしがりません、勝つまでは」というスローガンでいつも縛っていた。戦地の兵隊さんのことを考えれば何でも我慢できるというのが教員の、というよりは国の姿勢だった。しかし、お腹は空く。その年の間くらいは、まだ子ども達には、たまにお菓子の配給というものがあったようだ。それを面会に来た家族から聞いたが、私たちの所には届いていなかった。ある晩トイレに起きて、教員達の居場所のそばを通った時、その理由を知った。昭和館での教員の記録の中に、「夜は配給のお酒を飲んでくつろいだ」とあったが、お酒などはどうでも良い。子どもに配るべきお菓子も、教員達の口に入っていたのだ。それでいて、面会日に親たちがこっそり我が子に食べさせようと持ち込む食料は厳しくチェックされた。

【脱走のこと】

寒さが身にしみるようになってきた頃、同級の土岐迪子さんが、こっそり抜け出して家に帰るという事件を起こした。彼女は三鷹に住んでおり、一年生の時から電車通学をしていたので、乗り物を乗り継いで家に帰るということをやりやすかったのかもしれない。切符はどうしたのかそのあたりはわからない。しかしすぐに連れ戻された。そして教員だけでなく、子ども達からも冷たい視線を浴びることとなり、それは、戦後もとの学校に戻ってからも続いた。(トキーダッソウ・ときーだっそう!)と囃し立てられていた。彼女は深い傷を負ったが、中学になって大阪に転校したのでやっと救われたと聞いた。

【戦況の悪化】

1944年も年末に近づくと、戦況はますます厳しくなってきたようだった。久米川の農園でも、空襲警報で夜半に起こされ、防空壕に避難することもしばしばあるようになった。立川の中島飛行機製作所を狙っての空襲で、直接の被害はないが、これが頻繁に繰り返されると、学校も親元も、これではいけないと考えているようだった。夜起こされるのは、子どもにとっても辛く、勉強などそっちのけであった。

【祈り】

東京の両親がどんなことを考えて対応しようとしているか、学校がどんな対策を考えているか、全く知る由もなかったが、12月に入ってからは、自分一人で出来ることとして、夜布団に入ってから、「どうぞ家から迎えが来ますように」と祈ることにした。誰にも言わずただ心の中でひたすら毎夜祈り続けた。神様でも仏様でもいい、ただすがれる何者かに毎夜祈った。それは友達にも、もちろん教員にも言えない秘密だった。そして暮れも押し詰まったある日、突然明兄が現れ、連れて帰ると言った。

嬉しい気持ちも外には表せなかったし、夢ではないかという半信半疑の気持ちから、荷物をまとめたりしたことは全く記憶にない。ただ、兄が自転車に荷物を積み、一緒に農場の外に出ると、友達が農場の中から、「さよなら、さよなら」と追いかけるように走りながら叫んでいたのは、はっきりと記憶に残っている。

【縁故疎開へ】

家に帰ってからのことも、正月をどう過ごしたかも記憶にないが、親戚の中で疎開児童に該当する3人(奈津子、和歌子と私)は、祖母に連れられて、祖母の弟の住む山梨県白州に住むことになった。当時は白州ではなく、北巨摩郡菅原村白須、と呼ばれる村だった。小学校は(国民学校)白須小学校に転校した。祖母は当時69才だったはずだが、とても元気で、食料や燃料の調達も、もちろん3人の孫の世話もよくやってくれ、集団疎開のことはすっかり忘れるくらい満ち足りていた。

T小の久米川の疎開もその後解散し、更にどうしても縁故疎開の出来ない子(20人位か)は、校長の出身地である富山県福光町へ再疎開し、終戦もそこで迎えたという。

【敗戦の頃】

山梨には1945年の初頭から春頃までいて、更に東京の空襲が激しくなったので、父と兄二人を残し、秦野へ、母と姉、妹も一緒に移った。3月の大空襲で小石川の家も焼け、父と兄は間借り暮らしだったようだ。

そして8月、秦野で敗戦を迎え、9月には再び山梨に移った。その間に、祖母は中央線の列車銃撃でなくなり、山梨にはN子の一家がいて、祖母の弟の家に間借りして住むうちに、母が脳溢血で倒れ、激動の1945年は暮れていった。

【帰京】

1945年暮れ、一家がやっと東京に戻り一緒に住むことになった。父の教え子の家が高円寺に焼け残ってあったので、そこで間借りをした。母は左半身に後遺症が残ったが、日常生活には支障のない位に回復しており、父や兄たちと一緒に暮らすことが出来て、大人の苦労は尽きなかったろうが、平和で満ち足りていた。

私は高円寺の小学校にしばらく通学した。お正月を迎えるのに、山梨からの荷物が全部届いていないので着物が着られないと駄々をこねたことをなぜか覚えている。

春になって、音信の途絶えていた道生兄が突然上海から帰国した。結婚しており、もうじき出産するという。父の涙を、はじめて見た。

【復学】

1946年4月、T小が疎開から帰って開校した。疎開したまま帰れなくなった生徒もいたので、この年は外部からも新入生があったが、集団疎開のメンバ-との再開が無心に嬉しかった。富山の再疎開組の話を折に触れて聞いて、長い集団生活を送った友たちに同情の思いも持った。

【その後の人生】

復学して1カ月で父が亡くなった。家庭は、母や兄妹がいることで満ち足りていた。

その後、私の性格を形作った物の中に集団疎開での体験が大きく影響していると考えるようになったのは、大人になってからである。体制に対し常に批判的であること。ものごとの裏側をまず探って考えること。これらは、私たちの世代に共通して言える性格ではないかと思う。

そしてもうひとつは、人には決して言わないが、祈る心、である。「祈ること」は「考えること」に通じる。どうして願いが実現しないのかと繰り返し考えることによって、自分で道を探し出せることもある。

9才の頃に、そんな体験をできたことは、その後の人生に、プラスにはなっている。しかし、大人達がどうして戦争に突っ走る道を迂回できなかったのか、そんな中での過酷な経験はしたくなかったとの思いが強い。

大人に、「どうして戦争を止められなかったの?」と何回も聞いた。その繰り返しを、次世代の子ども達にさせるわけにはいかない。

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